大企業のエンジニアからゆり農家へ転身《東京から長野へ移住を決めた理由は?》
「もう東京に住む必要はない…」
そう考えている人も多いのではないでしょうか。
そんなとき脳裏をよぎるのは「移住」という選択肢。
「自然の近くで自分らしい人生を送りたい…」
夢は広がりますが、思い切った決断には常にリスクも伴います。お金、仕事、家族…簡単に決断できることではありません。
今回お話を伺った山中巧さん(38)は、エンジニアとして大企業を渡り歩き、長野県上伊那郡飯島町への移住。ゆり農家になる道を選びました。
彼に移住を決断させたのは何だったのか。
その理由を聞きに、長野県上伊那郡飯島町に行ってきました。
ミニマルな暮らしをしたい《大企業から移住を決意》
ーまずは経歴を教えてもらってもいいですか?
山中巧(以下、山中) 子供の頃になりたかった職業は電車の運転手。電車が大好きだったから、電車の運転手になる以外はあんまり考えなかったんだよね。中学の頃に出会った本に、”電車の運転手になるための工業系の学校がある!”と書いてあって、その通り高等専門学校に行ったくらい。
ー夢に向かって順調じゃないですか!?
山中 でもね…進路を決める時に先生に推薦で大学に行くことを薦められて、目の前に鉄道会社への就職の道があったのに大学に進学してね。それから、就職活動をしたら鉄道会社に就職できなくて…カメラのレンズを設計している会社に入ったんだ。スキー場が近いっていう理由で(笑)スキーが好きだったから趣味を中心にした人生を送ろうと思ってね。
ーなかなか変わった志望動機ですね…
山中 そうそう。その会社でも最終的に「こんなに居心地がいいところにいたら頭が骨抜きになってしまう」って思って、人も仕事の内容も環境も素晴らしかったけど、4年半で辞めちゃったね。もっと刺激的な仕事がしたい、もっと給料欲しい(笑)と思ってね。
ーそれで転職活動を?
山中 27歳の当時はカメラ業界の景気が良かったから、大手のカメラ会社に転職を決めたんだよ。最初は刺激的で楽しかったけど、10年間同じ会社で働いているうちにマンネリ化しちゃって、仕事に面白みを感じにくくなってきてしまったんだよね。カメラはすごく好きだったけど一度環境を変えてみようと思って、再び転職をしたんだ。
新しい会社に入社する前に、フィリピンのセブ島に一ヶ月半行っていたんだけど、その時にミニマリストの本を読んで、「モノがないっていう生活もいいねぇ」と思いはじめたんだよね。
「モノが必要なければ給料はそんなにいらないし、生活コストを下げるためには東京じゃないほうがいいなぁ…。」
ってそんなことをセブ島で考えていたんだよね。
ーたしかに、東京は生活コストが高いですよね…。
山中 そう。そんな思いで帰国して、新しい会社で働き始めたけど、ミニマルな生活への思いが大きくなってきて。給料はよかったけど、僕の考えとマッチしない部分が多くなってきたんだよね。
「やっぱり違うなぁ…。」「そもそもこんなに給料いらないし、東京で暮らす必要はないな。」
って思った時に「移住」というキーワードが浮かんできて、移住を考え始めたんだよね。
長野県上伊那郡飯島町に移住した理由
ー移住したいと思っても、実際に移住先を決めるのって難しいと思うのですが…。
山中 移住先を調べ出すと収拾がつかなくなりそうだったから、昔から好きな場所だった長野県の伊那谷に行こうと思って。景色もいいし、レストランもたくさんあるから、最初は駒ヶ根市に移住しようと思っていたんだよね。そんな中で彼女が子育てをしていくなら「飯島町がいい!」って言ってくれて。伊那谷周辺をいろいろ見て周って最終的には飯島町に移住することを決めたんだ。
ーこの場所に決めた一番の理由はなんですか?
山中 そうだねぇ、彼女がここがいい!と言ってくれたのもそうなんだけど、この地区の風景は素晴らしいでしょ。日本でここにしかない風景だと思ってるんだよね。
海が好きな人は海の近くに、山が好きな人は山の近くに行けばいい。移住先は迷いだすと決められなくなるから、無理やりにでも決めてしまった方がいいと思うなぁ。全く知らない場所に行ってしまっても、はじめは直感にしたがっていいと思う。どんな場所でも住めば都なんじゃないかな。
ーパートナーは移住に関して理解をしてくれましたか?
山中 実は、移住は先に自分で決めてしまって、「移住することにしました。ついてくる?ついてこない?」って感じで…(笑)。
ついて来てくれると言ってくれたので、正直驚いたけど、一緒に移住してくれると決めてくれたからには、責任を持って幸せにしないとって思っているよ。
なぜ、ゆり農家なのか?
ーゆり農家になる決断をするまで、どんなスケジュールで動いていたのでしょうか。
山中 最初に飯島町に行ったのは2016年8月。その時に地域のコミュニティスペースで、かつての飯島町の特産であった「新鉄砲ゆり」の生産農家が減少していること、地域おこし協力隊として新鉄砲ゆりの栽培をする人を募集していることを聞いて、実際にゆり農家の元に行ってみようと思ったんだよね。
翌月の9月に作業場や畑を見学させてもらって、10月には彼女と一緒に収穫体験をさせてもらったり、地元のお祭りを見学したりしていたね。それと同時に、飯島町近辺での会社員の面接を受けて、12月に内定をもらったんだよ。だから、会社員として働く道と、地域おこし協力隊としてゆり農家になる2つの選択肢を同時に進めていたんだ。
ー最終的にゆり農家の道を選んだのですね。
山中 ずっとエンジニアをやってきたから、オフィスの中で考えてお金を稼ぐっていうよりは、人間らしく汗を流して、お金になりました!ってことをやってみたいって思ってね。
これからは、2017年4月から地域おこし協力隊として、ゆり栽培を学び、その後、ゆり農家になる予定です。地元の人たちが地元の特産物を残していくことに価値がある、と話していることに共感して、「かつてゆりの産地だったこの土地で、”ゆり”を残す手伝いをしたい」と思って。
ーゆり農家になる決断をするまでも、現地によく足を運んでいたのですね。
山中 そうだね。移住先の仕事が不安なら、一度現地に行ってみるといいんじゃないかな。東京で調べていてもリアリティがないからね。最近は町や村役場でもいろいろと紹介してくれるから、調べるよりも実際に来てみて話をした方がいいと思う。
飯島町でのこれからの暮らし
ー山中さんは38歳で移住。いいタイミングでしたか?
山中 エンジニアとして充実した時間を過ごせて、仕事を楽しめたから、環境を変えるにはいい年齢だったかなと思うよ。
ー今までの仕事はやりたい仕事ができて、満足感が高かったんですね。
山中 今までの仕事は楽しくてしょうがなかったですね。「俺は会社でここまでやってきたんだ!」って思えたうえで移住するから満足感があると思うんだよね。東京が嫌だから移住するのではなく、東京の生活も楽しめていた人のほうが、きっと移住しても楽しめると思う。
ーこれから飯島町でどんな暮らしをしていく予定ですか?
山中 まずは、ゆり栽培を学び、地域に残っているゆりの栽培方法を次の世代につないでいきたいと思っているよ。その次のステップとして「ゆり栽培は魅力的だな」という姿を移住に関心ある人に見てもらって、農業を大きくしていきたいね。
いずれは、自分で農業法人を作って従業員を雇って、その従業員が独立し、さらに、独立した人たちがゆり栽培で食べていく。そういうお金や人の循環を作り出したいね。
最終的には、「農業やるなら飯島町いいらしいね」って思ってもらえる場所にしたいと思って。飯島町に人が来てもらうためにどういう仕事があって、なにが喜ばれるのというところに価値を置きたいかなぁ。
ー自分がやりたいことに加えて、意義も大切にしていくってことですか?
山中 そうだね、”僕が仕事をする上で大切なのは「楽しい」ことをすること”だったけど、今はもう一つ大切にしていきたいことがあって、”その仕事にどれぐらいの「社会的意義」があるのか”ということかなと思っているよ。
「楽しい」に加えて「社会的意義」を大切にしたいね。
自分がゆりで儲かりましたっていうだけだと、儲け主義になっちゃうだけで、最終目標は他の人の動機付けができればいいなと思って。
つまり、他の人が僕の姿を見て、「農業面白そうだなぁ、やってみよう」という動機付けができたらいいなということ。僕の仕事がきっかけになって農業やってくれる人ができたら最高だよね。それがやる目的だよね。
編集後記
気になったのは、誰もがうらやむ大企業で働く山中さんが移住を決断した理由でした。
エンジニアから農家への転身は勇気がいると想像していましたが、淡々と話しをしてくれる姿にはしっかりとした芯が通っていました。
「ステップアップとかダウンじゃなくて、違うフィールドに立っただけ」
山中さんと話して感じたのは、「悩む」のではなく「考え」ていること、そして「自分がどうなったら満足するか」ということをよく知っていること。自分に真っ直ぐ向き合う山中さんの芯のある考え方に魅力を感じました。
4月からゆり農家としての研修をスタートした山中さんの今後が楽しみです。
そして山中さんのお話を聞いて、私たちも5月から飯島町が運営しているお試し住宅に住んでみることにしました!僕らもこれからの生活の実験を皆さんに報告していきますので、引き続きよろしくお願いします。
◎おはなしを伺った人
山中巧さん(38)
カメラレンズメーカー、大手カメラメーカー、大手電機メーカー、合計3社にてレンズのエンジニア業務に携わった後、2017年、長野県上伊那郡飯島町に移住。2017年4月より、地域おこし協力隊として”新鉄砲ゆり”の栽培に関わる。