「意味」を見つけだす能力
「意味」のあることをしたい。
誰もがそうしたいと考えるのかもしれません。
けれど最近大切だと感じていることは、「意味」のあることをするではなく「意味」をみつけだす能力ではないかということ。
「意味」との出会いについてを考えてみます。
去を振り返ってみると、予想していた場所に自分が求める「意味」なんて見つけたことはなくて、
思ってもいなかった場所で「意味」に出会うことばかりでした。
妻との出会いも、
旅との出会いも、
移住先との出会いだって。
僕は石橋を叩いて渡るタイプ。
「どうせやるなら意味あることを…」
ついついどうすれば「意味」あることができるかを考え込んでしまいます。
けれど、なにか新しいことをはじめる前に考えすぎると動きが鈍くなるものです。
とっても鈍くなります。
「失敗はしたくないし、一度でうまくやりたい」
そんなふうに困難な理由を見つけて憂いている間に、機を逃してしまいます。
言い換えると、「意味」を探しているうちに「意味」に出会う機会を逃しているということ。
意味ないことから意味を見いだせる能力が必要。安易に意味を求めると、意味に逃げられてしまう。
— keiki ishikawa (@cake2525) 2017年9月7日
うまく行った人を見れば「あの人は特別だから」と決めつけ、うまくいかない人を見れば「そら見たことか」知った顔をする。
世の中すべてを理解するなんて不可能なのに、全部を知っているように立ち振る舞う姿に虚しさに近い感情が湧き起こります。
目指している姿は批評家ではないはずなのに。
「知っていることが偉い」
そんな僕らの潜在意識に埋め込まれた根の深い価値観。
僕はその価値観を全力で否定します。
「知っているか否か?」に価値はありません。
肝心なのは肌で感じて、自分で「意味」を見つけだす能力なのです。
「意味」は追いかけると逃げてしまう臆病な野生動物のようなもの。
行動に「意味」を求めすぎてしまうのならば、「意味」を「野生動物」に置き換えてみてはどうだろうか。
必死に追いかけても見つからないけれど、ふらりと森に入ってみると想像もしていなかった動物に出会えるかもしれません。
人生はポケモンみたいに弱い敵から順番に出てきてくれないし、プレイ前に攻略本を読むこともできません。
自分だったらどんな環境にいても、手探りで「意味」を見つけだせる。
できるできないではなく、そう信じられることが求められているのだと思う。