『タモリ学』老若男女に長く愛されるための考え方。
いいともいいとも♪いいトモロー♪
みんなご存知タモリさんですが、一体、彼がどんなことを考えているか知ってますか?
『タモリ学』を読んで、目の前のことで頭がいっぱいな僕にとって気づきが多かったので紹介します。
著者はタモリさんの生い立ちやデビューまでの道のり、赤塚不二夫さんとのやりとり、様々な場面でのエピソードからタモリさんの姿をまとめて、一冊の本にしました。
内容はタモリにとって
①偽善とは②アドリブとは③意味とは④言葉とは⑤家族とは⑥他社とは⑦エロスとは⑧仕事とは⑨希望とは⑩タモリとは
というもの。
そのなかで印象的だった、タモリにとっての①偽善とは、⑨希望について紹介したいと思います。
タモリ流「偽善」とは何か
自分ってなんだ?
誰もが考えたことのある「自分」ってなんだろ?との問いについて、タモリ流の考え方では以下のようになります。
たとえば「会社の課長」「芸能人」「妻がいて子供がふたりいる」「友達が何人いる」といった、現時点での自分自身の”状況”を横軸とし、「親は医者」「家計」「叔父が不動産業界にいる」「子供が東大生」など、自分の周囲の人間が持つ、”事実”を縦軸とする、と。この横軸と縦軸が交差したものが「自分」であるとタモリは言う。
「そうすると、自分というのは一体何か、絶対的な自分は何か、っていうと、わかんなくなってくるわけですね。それだけこういう、あやふやなものの中で自分が成り立っている」
そんな「自分」を成り立たせている横軸も縦軸も「余分なもの」であり、それを切り離した状態を、タモリは便宜上「実存ゼロ地点」と名付けた。
タモリさんでさえ、自分とは「あやふやなものの中で成り立っている」と語っている点に驚きです。
さらに、こう続けます、
そしてタモリは「人間とは精神である。精神とは自由である。自由とは不安である」というキルケゴールの言葉を引用し、それを解説していく。
「自分で何かを規定し、決定し、意義付け、存在していかなければならないのが人間」であり、それが「自由」であるとすれば、そこには「不安」が伴うと。この不安をなくすためには「自由」を誰かに預けたほうがいい、と人間は考える。
「人間は、私に言わせれば『不自由になりたがっている』んですね」
だから人は、「家族を大切にする父親」であったり、「どこどこの総務課長」であったりといった「役割」を与えられると安心するのだ。その「役割」の糸こそがシガラミである。
「人間は不自由だから幸せだ」という言葉がありますが、タモリさんも同じことを語っています。
そして自分に与えた役割と性格のズレが生じると、とたんに人間は苦しみだします。
うーん。なんと不自由な生き物なのでしょうか。
じゃあ不自由になりたがっている僕たちはどうすればいいのでしょうか?
若者よシガラミを排除し、実存ゼロ地点に立て!
そして大人になれば、そのシガラミを無視することは現実的に不可能だ。(中略)
18歳から22歳くらいまでの大学時代は、そのシガラミがほとんどない時期である、とタモリは言う。そこでその時期にこそ「実存ゼロ地点」を通過しなければならない、と力説するのだ。
「若者よシガラミを排除し、実存のゼロ地点に立て!」と。
この「実存ゼロ地点とは、自分がどの「役割」も持っていない状態のこと。
年齢を重ねると、誰しも立場や役割を持ち始めます。次第に、立場や役割の考え=自分の考えと錯覚し、ふとした時に「自分ってなんだろ?」なんてことになります。
初めてのひとり旅って「実存ゼロ地点」に近いですね。だれも自分のことを知らない環境でこそ、シガラミのない実存ゼロ地点に立つことができます。
ゆえにそんなシガラミを象徴するような各種行事を排除していかなければならないと、タモリは結論付けるのだ。
結婚披露宴、クラス会、そしてクリスマスにバレンタインデー・・・それらの各種行事は「不自由になりたがっている」人間が不安から逃れるための幻想、錯覚、自己喪失の場であり、排除すべきものだ、と。
結論は、各種行事は排除すべきだ!と。
極論で驚きましたが、タモリさんはすべての記念日(のパーティー)はやらないんだそうです。
偽善を徹底すると、別の楽しみがある
「最近、『人間関係をうまくやるためには、偽善以外にはないんじゃないか』って思っている」とも語っている。
ネクタイを締める、制服を着る、食事のマナー、そういった「様式」をタモリは「偽善」だという。
そうしてタモリは「マナーと美意識も偽善」であるといい、さらに「偽善は善意」「偽善を愉しめばいい」とも述べている。
様式や形式は偽善である。しかし、善意から生まれる偽善もあります。
偽善も時と場合によっては必要だよ。
タモリさんが時間をかけて気づいたことなのでしょう。
タモリにとって希望とは何か
本文中で印象的な文章を抜き出しました。
人間の不幸は、全体像を求めるところにある。
一般的には「全体像」を持つ人間が、高級であるとか文化的であると評価される。全体像を求め、全宇宙を包括して理解したいという希望をもったとしても、実際にはそんなことは不可能だ。我々が認識できる範囲には限界があり、時間的にも、空間的にも、それを超えて世界を把握し、また普遍的な揺るぎない自己を確立させようとするのは不幸の始まりである。逆にそのような大それた欲望を捨てると、アメーバのように自由自在に自身を解放できるのだ。
「人生とは後悔するためにすごすものである。どんな選択をしても人間はどっかで後悔するんだよ。」
だからこそ悩んだところで仕方ないのだ。
人生成功せにゃいかん、ナンバー1にならなきゃいかん、それには何歳までにはこういうことをやっておかないといかん(笑)。ダメだよ、それじゃあ。苦しくなるから」
「意味をずーっと探すから、世界が重苦しくなるんだよ」
幸せというのは前の上をみるんじゃなくて、後ろの下を見ること。望むものじゃなくて感じるもの
さて、どんな感想をもちましたか?
タモリさんは期待も悲観もせずに現実に淡々と向き合っているのだと思います。
すべてのことは変わりゆく。そして起きていることに意味付けをしているのは自分である。
仏教的な考え方があるのかもしれませんね。
いつの間にか「完璧にしないといけない!と考え、行動する意味を考えする僕にとっては、気づきの多い言葉がたくさんありました。
おわりに
『タモリ学』を読んだ後、過去の笑っていいとものシーンが脳裏に浮かびました。
いつ見ても古くない『笑っていいとも』を31年間支えたのは、タモリさんの考え方の影響も大きかったと思います。
今の世の中に求められているのは、自分は自分でしかないという「これでいいのだ!」精神なのかもしれません。
自分に期待しないで、目の前で起きている状況を楽しむ。
老若男女、多くの人に慕われるタモリさんの秘密が散りばめられている良書でした。
興味のある方はぜひ読んでみて下さい。きっと新しい発見があると思います。